木鐸社

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『レヴァイアサン』31号 特集 市民社会とNGO――アジアからの視座

ISBN4-8332-1147-5 2002年10月15日発行 定価:2000円+税

〔特集の狙い〕市民社会とNGO―アジアからの視座 (文責 辻中 豊)

 本特集「市民社会とNGO--アジアからの視座」は,市民社会やNGOという概念を,比較政治の地平で,欧米的でも日本特殊的でもなく捉え返し,経験的な分析概念もしくは分析焦点として客観的に用いるために編まれた。
 この問題意識の背景には,「市民」概念をめぐる論議のように,市民社会,NGOをめぐる日本での政治学研究,社会科学研究は国内消費用の傾向が強く,日本人研究者でのみ通用する固有の文脈が強調されすぎているのではないかという懸念が筆者にある。第一論文として展開するように,世界の学界での用法とはギャップがある。日本の特殊な用法やニュアンスは興味深い問題であるが,そこに固執する限り,入り口の言葉の議論で行き詰まってしまって,経験的な分析が行われにくい。また世界では多様な社会を対象として1000を越える論文が10年余で書かれているが,それらを吸収する目を閉ざし,結果として日本の研究を視野狭窄な独り善がりなものにすることになる。
 他方で,市民社会やNGO,NPOを民主主義,民主化と等号で結ぶような,やや無邪気な市民社会論,NGO論も氾濫している。メディアには,NPOという日本固有の略語やエンパワーメント,アドボカシーといったカタカナ語が溢れ,一種のブームの感がする。しかし,それらの実態や意義についての政治学的な,経験的な分析はほとんど進んでいない。多くの日本の書物は,世界の学界の動向や経験的な比較分析とはほとんど接点がない。これらへの実質なきブームは幻滅が生じると,反動として総批判へと転化する可能性を孕んでいる。
 本特集では,そうした日本の知的情況に対して,アジアの経験的な比較分析の視点を導入し,世界の学界との接触と交流を深めたいと考えた。  最初に,編者が,こうした問題意識に基づき,世界の政治学界の動向を踏まえ市民社会とNGOの再定義を試みる。こうした概念への注目は90年代にほぼ世界同時に生じたが,地球化とポスト-社会主義の時代における新しい公共性志向として捉えることができる。
 第二論文の執筆者フランク。シュワルツは,ハーバード大学,ハワイ東西センターを拠点として,日米欧アジアの研究者を交えて行われた『日本の市民社会』プロジェクトの成果であるState of the Civil Society in Japan (Cambridge University)の共同編者であり,その序論(「序論:広いレベルの論争と日本の位置」)および第一章「市民社会とは何か」の執筆者である。彼は,欧米的な文脈を文献的に検討した後,最近の日本の論調,市民社会をいわゆる「市民団体,NGO,NPO」だけに狭く捉えがちな論調を対比し,すでに触れたように機能的な広い文脈を強調する。
 次いで,重冨論文は,アジア経済研究所を中心とする広範な比較研究の伝統を受け継ぐ。
既に触れた世界の比較政治の動向に対応するアジア15ヶ国の比較研究を踏まえ,単純な近代化論的な認識では,多様なアジアのNGOの展開が捉えきれないことから出発し,政治経済的な機能空間における国家,市場,共同体の配置関係,占拠関係の中で,彼の言うNGO(広義なので市民社会ともほぼ対応)が展開することを理論化する。
 さらに,首藤論文は,豊富な事例研究を踏まえ,アジア市民社会が,国家との関係抜きには論じられないこと,また国際関係や地域主義の曖昧な雰囲気がもつ積極的な意義について,豊富な事例を引証しながら,国家人権委員会に焦点を当てて詳細に検討している。
 最後に,廉載鎬論文は,筆者とともに行った韓国の市民社会組織の包括的な実態調査と韓国での多様な調査を基にして,民主化以後の市民団体の政治化が,いかなるガバナンスの変化をもたらしたかを,三つの事例研究を含めて綿密に検証している。
 以上の五つの論文は,用語法などで必ずしも統一が取れているわけではないが,いずれも,世界の政治学界での市民社会,NGOの研究動向に対応した経験的な研究の成果であり,その意味でアジアの経験的な比較分析者の視点を導入し,世界の学界との接触と交流を深めたいという筆者の主張と軌を一にするものである。アジアや日本の現状を含めた大胆でかつのびやかな経験的。理論的研究の世界への発信を願って本特集は編まれたのである。


目次
<特集論文>
世界政治学の文脈における市民社会,NGO研究 辻中 豊
シビル・ソサエティーとは何か フランク・J・シュワルツ
NGOのスペースと現象形態 -第3セクター分析におけるアジアからの視角 重冨 真一
東南アジアの国家人権委員会と市民社会 首藤 もと子
韓国の市民社会とニューガバナンス -民主化以後の市民団体の政治化 廉 載鎬
<投稿論文>
ニュー・ポリティックスの台頭と価値観の変容 日野 愛郎
地球温暖化防止政策を巡る国内政策過程 -京都会議を焦点に 佐脇 紀代志
<研究ノート>
電気通信事業に対する外資規制 須田 祐子
<書評>
ニュー・レイバーの「新しさ」とイギリス左派理論
 近藤康史著『左派の挑戦 -理論的刷新からニュー・レイバーへ』木鐸社、2001年
評者=阪野 智一
政官関係の実証分析
 David Epstein and Sharyn O'Halloran, Delegating Powers: A Transaction Cost Politics Approach to Policy Making under Separate Powers, Cambridge University Press, 1999.
評者=杉之原 真子
社会党研究への新しい視座 -二つの競争空間のはざまで
 森裕城著『日本社会党の研究』木鐸社、2001年
評者=福永 文夫
政治における理念の逆説的運命
 中山洋平著『戦後フランス政治の実験』東大出版会、2002年
評者=福永 文夫
国会議員のリクルートメントと政治行動
 吉野孝、今村浩、谷藤悦史編『誰が政治家になるのか』早稲田大学出版部、2001年
 東大法学部蒲島ゼミ『現代日本の政治家像 Ⅰ・Ⅱ』木鐸社、2000年
評者=山田 真裕

◆毎号真っ先に読まれる「編集後記」31号

加藤 淳子

 英語圏の研究書は通常論文と同様レフリーにかけられ出版される。原稿を提出さえすれば出版されると言うことはあり得ない。ケンブリッジ大学出版会に最初の原稿を提出してから三回のレフリーと書き直しを経て二年半で出版契約にこぎ着けた。二回目のレフリーが終わった後,「次の三回目で出版可能と判断されなかった場合は四回目は行なわない」と告げられ,三回目のレフリーを行なうか他の出版社に提出し直すかの選択を迫られた。長期間のレフリープロセスの後出版不可能となると著者の側に損害が大きいことを考慮しての出版社側の申し出だが,結構追い詰められた気持になってしまった。結局最後のチャンスの三回目で契約も得られレフリーコメントで雑駁だった原稿も改善されるという大変幸運な結果とはなったが,今となればかなりあぶない橋を渡ったと胸をなでおろすことしきりである。

川人 貞史

 このところ,『政治と金』をめぐる疑惑が多くなって,議員の辞職および政治家の訴追が続いている。そのせいで,一〇月末にまとめて行われる補欠選挙の件数も増えている。一九九四年以来の政治資金の透明化と政党助成および二〇〇〇年からの企業。団体献金の禁止によって,政治家の資金事情は大きく様変わりしているが,これらの疑惑の多くは新しい制度なり規制強化なりに関連しているようである。その意味では,『政治と金』の問題が多発することは,それだけ問題が解決に向かっているということかもしれないから,喜ぶべきことなのかもしれない。しかし,もちろん政治はそれほど甘くないかもしれない。それにしても政治資金データを収集。分析する作業は大変である。早く,電子データとしての公開を望みたい。

辻中 豊

 本号を担当した。筆者の論稿は,前回に予告したシリーズと重なる個所があるため,当初の比較ではなく概念の問題に替えた。政治学世界で概念のブームは何度となく訪れる。市民社会やNGOをそうした一過性ものにしないためには,言葉の分析的な定義が必要である。その際,日本の独自の文脈にこだわり過ぎると比較研究が難しい。あえて大仰な題名の小論を書いた次第である。自分の経験でも,日本語で書かれる研究は安易な相互理解へのもたれ掛かりがある。外国語に直訳されると何が言いたいのか不明である場合が多い。他方で,日本の研究者のメリットは,なにより日本語が読めること,アジアとの接点が多いことなど,日本独自の視点があることである。それは貴重だが,相対化し世界に伝えないと独り善がりである。

真渕 勝

 日本の大部分の大学において,政治学は法学部で教えられ,政治学者もまた法学部で育てられてきている。政治学は,多少の肩身の狭さを我慢すれば,得してきたことのほうが多かったように思う。法学部にやってくる学生には,まじめで頑張り屋が多く,そのなかから変わり者をピックアップして,政治学者に育ててきたところがあるからである。しかし,法学部を残したまま,法科大学院ができると,事情は変わってくるかもしれない。だからこそ,現在,いくつかの大学が公共政策を看板に掲げる新しい大学院を構想し,政治学の「市場価値」を高めようとしている。その際,やはり見落としてはならないのは,実務との接点を多くしようとする新大学院と伝統的な研究者養成の大学院との折合いをどのようにつけるかにある。悩みは始まったばかりである。

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