木鐸社

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『日本の政治過程-選挙・政党・利益団体研究編-』

序文

 2016年7月末,自宅に一通の封書が届いた。中に入っていたのは,筆者が学部生の頃から作成作業にかかわっている総選挙データベースJED-M (※1)に関する事務的な書類であったが,直筆の手紙も同封されており,それは次の文章で締めくくられていた。「先生は,講義のために相当な準備をなさると伺いました。水崎先生の蔵書から遺贈された著作を読み直されて,お考えも深くなったことと存じます。講義録を本になさることを考えてみて下さいませんか。今日,明日というわけではございませんので,ゆっくりお考えくださいませ」。封書の差出人は,木鐸社の坂口節子氏である。
 坂口氏が何方から筆者の講義のことをお聞きになったかは,何度尋ねても教えていただけないので,現在も定かではない。それはさておき,筆者は上記の封書を受け取る以前に坂口氏にお送りした手紙の中で,2014年12月に逝去された水崎節文先生(岐阜大学名誉教授)の蔵書の一部を譲り受けたときのことを書いたことがあった。先生の書斎の机がある場所から最も近い書棚に,『投票行動』,『政治参加』,『レヴァイアサン』等の現代政治分析に関する書籍と,今中次麿,具島兼三郎,嶋崎譲,戸沢鉄彦,信夫清三郎,横越英一の政治学の原論にかかわる書物がセットで配置されていたのを発見し (※2),大学教育もしくは学問のあるべき構えについて深く考えさせられた,と綴ったのだが,その箇所に坂口氏が反応されたというわけである。
 講義録なるものを出版するという展開は,まったくの想定外であり,40 代後半の段階でそれをするのはあまりにも生き急いでいるような気がして,イエスともノーとも言えない時期があった。しかし,その後,自分自身の研究・教育実践のなかじきりの機会として考えればよいのではないかと思うに至り,本書をまとめることにした次第である。
本書を執筆するに当たっての最大の悩みは,講義録そのものとして本書を作成するかどうかという点であった。筆者は現役の大学教員であり,講義の内容は毎年変化している。教授法としての仕掛けも試行錯誤を繰り返している。それゆえ,現時点における講義内容をそのまま文章化してしまうことには抵抗があった。そこで,本書では,筆者の既発表の論文のいくつかを活用しつつ,学問としての政治学に立脚した政治過程分析の基本的な構えを示すことを主眼に置いた読み物の作成を目指すこととした(※3) 。研究書でもなく,教科書でもないという意味で読み物なのであるが,文章の作成・改変に際しては,研究される側である日本の政治過程の数十年と研究する側である政治学者の数十年の両方を,人間の物語として読んでいただけるように,講義案を作成する場合と同種の工夫を施した。
 筆者が大学の教壇に立つに当たって意識していることを予め記しておきたい。筆者は,大学に入学したばかりの学生に,大学の講義を受講する上での注意事項を語っている。そのうちのひとつに「現象・レンズ・イメージの3点セット」がある(※4) 。実際の講義の中での語りを再現すれば,次のようになる。「大学の講義では,現象そのものを語っているわけではありません。現象そのものを語るのであれば,半期15回の講義では,とても足りません。そもそもの話として,現象そのものを語ることが可能であるかどうかという問題もあります。では,大学の講義の目的はどこにあるのでしょう。ここで紹介したいのが,『現象・レンズ・イメージの3点セット』という考え方です。既知の現象であっても,専門的なレンズを通して見ると,裸眼で見た場合とは異なるイメージが浮かび上がってきます。学術的なレンズに関する認識を深め,その使いこなしを体験学習するのが大学の講義です。半年もすれば,高校生の頃には見えなかった景色が見えるようになってきます。高校時代には見えなかった景色を見ること。これこそが大学で学ぶことの醍醐味だと思いますが,どうでしょう」。
 政治現象を扱うに当たって,データを用いて議論を展開することの重要性も講義で強調していることである。その際,意識している点は,データがどのように収集されているかについての経験談を入れ込むことである。社会調査の実践に重きを置く社会学とは異なり,近時,「魚は海や川にとりに行くのではなくて,スーパーに買いに行くものだと思っていた」という話に近いことが,政治学の業界で発生している。「データは自分で集めるものじゃなくて,インターネットでダウンロードするものだと思っていた」。この点については,確かにそうであるかもしれない,と思うところもある。データの二次利用の効用も大いに認めなければならないだろう。しかし,学部教育の段階においては,少し,踏みとどまって考えてみてもよいのではないか,というのが筆者の見解である。
 卒業研究が視野に入ってくる大学3回生(3年生)以上に対しては,上述の「現象・レンズ・イメージの3点セット」の話に加えて,現象をどのような位置・角度から捉えるかについて力点を置いた講義を展開するように努めている。同一の現象であってもそれを見る位置・角度によって見える景色が変わってくるというのは当たり前の話かもしれないが,そこにこそ政治現象の特質があり,また存在拘束性の問題を理解することによって先行研究の読み方も変わってくる可能性があるというのが要点である(横越1962:14-19)。こうした話は,興味深いことに,大学1回生(1年生)の時期の人々にはまったく伝わらない。しかしながら,大学3回生の秋頃になると何かを了解したかのような表情を示す受講生が出てくるというのが,筆者の経験則である。
 ここまでの言及ですでに示唆してきたところであるが,学部生に対して政治学を講義していく場合には,講義内容そのものについての考究だけではなく,学生の学習段階に応じた語り口や補助線の導入が重要なのではないかと筆者は考えている。毎年,大学の書籍部において販売される各種の教科書を見て,「いったい,誰がこれを読むのだろう」と思う人は少なくないだろう。筆者自身の経験を踏まえて言えば,学部生向けの教科書を読むのは,実は大学教員なのではないかと思うのだが,いかがだろう。なぜ,専門家である大学教員が学部生向けの教科書を読むのか。「なるほど,そのような語り口や補助線を使えば,伝わるのか」という発見を求めているからである。本書では,筆者が日々の講義で活用している語り口や補助線をさまざまな形で紹介してみたい。本論を読み始めていただくに当たって,大学の講義におけるゴールはどこにあるのかについて,筆者の考え方を知っておいていただけたらと思う。場面を,もう一度,新入生と顔合わせをする4月に戻そう。大学生のことをよく知らない方々は,新入生の姿を見て,「若いということは素晴らしい」等の感想を抱くようであるが,実物の大学生はそれほど明るくはない。この大学でよかったのか,この学部でよかったのか,この分野でよかったのか。そういった思考に縛られた学生が実に多いのである。中には不本意入学というケースもある。深く考えることなく政治学を専攻したというケースも少なくない。
 筆者は,大教室の黒板に色付きのチョークで絵を描きながら,このように話すことにしている(※5) 。「精神科医の先生が執筆した本の中に面白いことが書いてあったので,その話をみなさん向けに少しアレンジして紹介します。進路選択における戸惑いについてです。人間は好みの色の水を求めて井戸を掘る存在だ,という設定をとるのですが,勿論,これはたとえ話なので,そういうものだと思って聞いてください。話を続けます。今,あなたは好みの色の水を求めて井戸を掘っている。しかし,なかなか好みの色の水は出てこない。赤い色の水を求めていたら,黄色の水が出てくる。緑色の水を求めて井戸を掘ったら,白い色の水が出てくる。そうこうするうちに,自分が何色の水を求めているのかが,わからなくなってくる。さあ,どうするか。希望する色の水と出会うまで,あちこち穴を掘り続けるのか,という話です。精神科医の先生は次のように言います。井戸というのは,掘り方が浅いと色のついた水が出てくるが,実は,どの井戸も深く掘り進めていけば,皆,地下水脈につながっているのです,と」。
 この大学で学ぶということ,この学部で学ぶということ,この分野を学ぶということ,これらはすべてひとつの色の水に過ぎない。であるとすれば,その先にある地下水脈とは何か。この問題は個々人の納得にかかわるものなので,誰かが決めるものではなく,自分ひとりで決めてよいものなのだということを伝えた後,実際の講義では「参考までに」ということで筆者の考えるいくつかのキーワードを提示するのであるが,ここでそれを示すことはしないことにする。本書を読了いただければ,十分に伝わるのではないかと思うからである。
 本書の内容と構成について簡単に記しておきたい。政治そのものに対する理解がなければ日本の政治過程は理解のしようがない,という考えに基づいて,政治とは何か,それはどのような原理を有しているのかを論じることから本論は始まる。その際,中学・高校の授業における説明のされ方を踏まえた上で,読者が無理のない形で中盤以降の議論に入って行けるように気を配った。その後は,日本の選挙,政党,利益団体を順番に論じている。「日本の政治過程」というタイトルからすれば,それ以外のテーマも扱ってしかるべきであろうが,本書においては研究者としての筆者の守備範囲の中で議論を尽くすことにした 。(※6)自分自身がかかわりを持ったものであれば,研究の動機,何かを発見したり何かに気づいたりしたときの高揚,自分が見た景色を自分ではない誰かに確認してもらうための試行錯誤とそれが成就したときの喜び,研究の展開における偶然と必然の不思議な絡み合いなどを,ありのままに語ることができると判断したからである。
 本書には掲載しなかったが,思い入れのある作品のひとつに『京都市政史』所収の「文教観光」(森2012a)がある。これは,京都市の依頼を受けて,戦後京都市政における文教観光政策の変遷をまとめたものである。叙述の大半は,京都市歴史資料館の方々が作成してくださった資料編に基づいて行ったが,京都市青少年科学センターで展示されている朝永振一郎博士の色紙を紹介している箇所などは,筆者のこだわりを示したものである。「ふしぎだと思うこと これが科学の芽です よく観察してたしかめ そして考えること これが科学の茎です そうして最後になぞがとける これが科学の花です」という朝永博士の言葉は,長きにわたって筆者の研究・教育実践の支えとなっているものである 。(※7)
 多様な内容を含む本書の各部に通底しているものは何か。筆者が常に意識してきたのは,研究者側の都合を優先して「意図したこと」を現象に関連づけて作品化するのではなく,研究対象とした現象について「気づいたこと」をシンプルな形で記録にとどめ,次につなげていくという構えである。これはひとつのテーマを長期にわたって,とりわけ世代を超えて追究していこうとするときのコツであり,場合によっては「葛藤」さえもありのままに記すことが重要だというのが筆者の考えである 。(※8)本書は,先述の通り,筆者にとってのなかじきりの意味しか持たないものであり,「政治学も厄介な時代に来たものだが,急がば廻れだな」という水崎先生の言葉 (※9)を指針として,今後も本書のようなスタイルの学問を実践していければと考えている。
 本書をまとめるに当たり,資料整理・図表作成・校正等で,益田高成氏(新潟大学法学部准教授)の助力を得た。木鐸社の坂口氏には,行き届いたご配慮をいただいた。ここに記して感謝の意を表したい。

(※1) 衆議院選挙の投開票結果のデータを市区町村単位で収録した総選挙データベース JED-Mについては,水崎(1991),水崎・森(2007)参照。
(※2) ここで名前を挙げた政治学者の学統については次の書籍・論文を参照。今中次麿については今中次麿先生追悼記念事業会編(1982),具島兼三郎については『追想 具島兼三郎』刊行委員会編(2006),嶋崎譲については嶋崎(1983),戸沢鉄彦については戸沢・黒田(1967),横越(1983),信夫清三郎については信夫清三郎先生追悼文集編集委員会編(1994),横越英一については横越編(1983),横越・伊藤編(1994)。以上に関連して,田口(1983; 1985; 1990; 2001; 2005)も参照されたい。
(※3) 本書では意識的に学問という言葉を用いている。学問が何を意味するかについては,南原繁の「大学と学問」(南原2007:250-260),増田四郎の『大学でいかに学ぶか』(増田1966),真下信一の「学問する心」(真下1979:4-10)の中で議論が尽くされているので,それらを参照していただきたい。
(※4) レンズという表現は,多くの学術書・教科書に登場するものであるが,筆者にとっては,佐藤(1989),佐藤編(1990)が重要であった。
(※5) 以下で紹介する語りは,泉谷(2006:199-203)に登場する「地下水脈」の話を,筆者が学生向けにアレンジしたものであることを記しておきたい。
(※6) 政治過程論の全体像については,伊藤・田中・真渕(2000),松田・岡田編(2018)を参照していただきたい。
(※7) 人間にかかわる現象ではなく,自然にかかわる現象を研究対象にするという点で,自然科学と社会科学には決定的な違いがある。しかし,研究対象を追いかけるのはどちらも人間であり,その営みには学問としての共通性が存在する。この意味で,筑波大学の関係者であれば誰もが知っている朝永博士の言葉は,社会科学分野の我々に対しても,一定の示唆を与えるものであると筆者は受け止めている。
(※8) 「意図したこと」,「気づいたこと」,「葛藤」の含意については,松田(2008)参照。
(※9) この言葉は,岐阜大学図書館が発行する冊子『寸胴』に掲載されていた水崎(1992)の中に記されていたものである。筆者がそれを読んだのは,大学3回生の秋であった。

2022年秋 美浜町久々子の民宿いそやにて
                                    森 裕城


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